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UP AND AWAY BALI TOURS : General Info - about bali
History Of Bali  バリの歴史

西暦 1520 年頃、ジャワのヒンドゥー教王国の王子がイスラム教国の侵略より逃れてバリに廷臣、祭司、工芸師たちを従えて渡り、
¥ バリの王を名乗った。その際、当時の芸術の最高峰であったヒンドゥー・ジャワ文化が官廷ごとバリに移植され、以来現在まで、
ヒンドゥー教と共に深くバリの人々に伝承されてきた。バリ島の宗教は 93 %がヒンドゥー教で残り 7 %がイスラム教、仏教、
キリスト教などである。バリ島全体が神の王国であり、人々は一生を信仰上なんの迷いもなく誕生からその死、そして死後の
世界まで神への全託と畏怖の内に日常生活を送っている。 バリは 8 県から成り、大きく分けて東部、南部、西部、北部、
中部に分けられる。州都デンパサールを中心とした南部が現在バリ観光の中心地となっており、最近では東部地域開発が進んでいる。

海のモンゴロイドたちの活躍
 世界最長、最大の多島郡から成るインドネシア群島は、約50年前のf第四氷河期の頃には、スンダ大陸、サフル大陸という
2つの大陸の一部だった。スンダ大陸とは、現在のインドシナ半島、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島を含む広大な陸地で、
オーストラリア大陸から北西に張り出した、サフル大陸と、ティモール島付近でつながっていた。
 氷河期が終わると、極地方の氷が溶け出し、2つの大陸は海面下に没した。そのとき、水没を逃れた山や台地が、今日の
インドネシア郡島を形成している。
 スンダ大陸には、ジャワ原人をはじめとする旧人類が住み着いていたが、バリ島からはまだ化石人の骨が発見されていない。
 紀元前2500年頃になると、中国東南部の河川流域から、モンゴロイド系の民族が、台湾、フィリピン、メラネシアを目指して海を
わたった。その一部は、沖縄諸島を伝わって日本列島へも到着したとされる。これと相前後して、バリ島にもスマトラ島、
ジャワ島経由でオーストロネシア語族の一派が上陸した。
 それからおよそ1000年前後、今度はニューギニアの東北沿岸部にラピタ人と呼ばれる海洋民族が現れた。彼らは、
メラネシア一帯に装飾土器の製法を伝え、卓越した航海能力ではるか当方のポリネシアにまで進出した。同じ頃、ベトナムや、
フィリピンにも土器文化が伝わり、インドネシア一帯に共通の海洋性文化が広まった。こうしたなか、バリ島にも土器の製法が
伝わり、島の沿岸部では死者を土製の御棺に埋葬する習慣が生まれた。

金属文化と稲作技術の到来
 紀元前1000年期に入ると、北ベトナムのドンソンを中心に青銅器、鉄器文化が栄え、やがてインドネシア群島もその恩恵に
浴した。とくに注目されるのが絵や文様の刻まれた胴鼓で、バリ島のマヌアバでは、胴鼓の製造に用いたとされる型が発掘されて
いる。 
 ドンソン文化は、金属器とともに、稲作技術をもたらした。バリ島の稲作がいつ頃はじまったのかは定かではないが、かなり早い
段階から、白米や赤米が作られていたものと思われる。ちなみに、日本にめでたいときに赤飯を炊く習慣があるのも、古代アジア
に広く赤米が普及していたことを裏付ける。

歴史時代の幕開け
 3〜4世紀になると、インドのヒンドゥ文化の影響が、東南アジアからインドネシア一帯に広がり始めた。ここにおいて文字の無い
時代は終わりを告げ、各地に王族の業績を記した石碑が建てられるようになった。その最も古い記録からは、ジャワ島の王国が
南インド諸国との交易で栄えていた様子が伺える。
 6世紀に入ると、スマトラ島付近に興ったシュリヴィジャヤ王朝が西インドネシア海洋貿易を独占し、インド仏教を基盤とする
都市国家を築き上げた。
 これに刺激を受けた、ジャワ島民は、8〜9世紀にシャイレンドラ王国を建国した。このとき、インドやセイロン島から渡ってきた
移民集団が、国家の重要な輸出品であり、戦略物資でもある米の増産に取り組んだ。そこで注目されたのが、
稲作地としてのバリ島の存在だ。

ヒンドゥ文化の隆盛と衰退
 バリ島には、すでに9世紀以前に王朝が存在していた。そのひとつ、シャレインドラ王国の流れの勢力は島の北部を支配下に
置き、シュリヴィジャラ王朝の一派は島の南部に王権を築いた。
 10世紀の半ば以降、シュリヴィジャラ系のワルマエワ王朝が制覇を握り、東ジャワ王朝と婚姻関係を結んだ。やがてバリの王と
王女との間に子が生まれ、エルランガと名づけられた。
 エルランガは、東ジャワ王朝の婿養子となり、ジュリヴィジャヤとの戦いで漆黒の危機に陥った王国を再建し、祖国バリとの
きずなを深めた。この頃より、バリ島ではジャワ文字や、ジャワ暦が使われ始め、ヒンドゥ教の影響を強く受けるようになった。
 ところが、東ジャワのシンゴサリ朝は、1284年突然バリを攻撃し、島を支配下に治めた。そのわずか8年後、王朝は内乱で
滅び、皮ってマジャバイト王国が誕生した。
 こうした混乱のなか、バリ島にふたたびワルマデワ系王朝が復活したが、1343年にマジャバイト王国によって滅ぼされ、
ついに400年の長きにわたったマルマデワ王朝に終止符が打たれた。
 マジャバイト王国は、その後100年にわたってインドネシア諸島を支配し続けた。しかし、15世紀に入ると、イスラム教徒の
台頭により、屋台骨が揺らぎ始めた。その尖兵となったのが、香辛料を商う商人たちだ。彼らはマレー半島やジャワ島の港町で
富を蓄え、熱烈にイスラム教を信仰した。やがて、それらの港町のなかから海岸国家が誕生し、ヒンドゥ社会を侵蝕し始めた。
 こうして、権勢を誇った王国も徐々に衰退し、1520前後に滅亡した。
 
オランダ植民地時代と独立への歩み
 ジャワ島を脱出した一部の王族や貴族達は、バリ島のゲルゲルの近くに亡命政権を樹立した。これにともない、ジャワの芸術
や文字がそっくりバリに移され、古典文化の黄金時代が到来した。
 同じ頃、香辛料をめぐる争いは世界規模に達し、香科諸島(モルッカ諸島)に目をつけたヨーロッパ列強が、相次いで
インドネシア海域に進出してきた。
 最初にやってきたのは、ポルトガル船、次いで1597年オランダの船隊がバリ島を発見した。ときはまさに豪華な王朝文化
真っ盛りの頃。乗組員たちはすっかりバリの虜になった。多くの者が帰国を拒んだ。このニュースが本国に伝わると、
国中が大騒ぎとなり、バリ島の楽園伝説が広く流れることになった。
 しかし、オランダの狙いは東インド会社を介して、インドネシア諸島を植民地化し、貿易を独占することにあり、19世紀に
入ると、力を及ぼしバリ島支配に乗り出してきた。
 1846年以降、半世紀にわたる戦争が続き、1906年にはデンパサールで悲惨なププタン(玉砕)が決行された。それは
王の名誉と死の尊厳を守るための儀式であり、オランダ兵士が茫然と見守る中、盛装した老若男女の集団が一斉に
胸を突き刺した。
 以後、オランダ支配は、1942年に日本軍がバリ島を陥落させるまで続いた。そして、第二次世界大戦の終わりとともに
インドネシアは独立を宣言し、1950年に統一インドネシア共和国が成立した。
 スカルノ大統領時代、バリの政治は混迷を極め、1965年には数万人の共産党員が虐殺された。その後、大統領の座は
スハルトの手に渡り、バリは随一の観光地として、新たな歩みを始めた。

 

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